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私の自由主義的大学改革プラン

今や平等主義が悪平等に転化している

 

北海道大学大学院経済学研究科助教授

ニューヨーク大学客員研究員

橋本努 (新聞『SENKI』掲載稿2001.7.15)

 

 

みなさんお元気ですか。大学の独立行政法人化についてコメントを、とのことでしたが、昨年の7月からニューヨーク住まいのため、日本の大学改革をめぐる最近の議論について十分な知識がありません。ですから独立法人化そのものに関しては、今は直接の意見を表明するのは差し控えた方がいいと思うのです。ただし、長期的な視野に立った大学改革の展望ということでは、私には一つの具体的プランがあります。その概要は昨秋、雑誌『論座』に論文として発表しました(『論座』2000年10月号「32歳の大学改革論――入試制度をあらためて『知』の成長を加速化させよ」)。ここではその中から2点を中心に述べ直すことで、教育問題をめぐる貴紙の議論に一石を投じてみたいと思います。

 

【大学の授業はなぜつまらない?】

 そもそも私が独自の大学入試改革案を提出するに至った問題意識は、現行の教育制度下では大学在学中に学問へのインセンティブが形成されない、知的水準の低下が必然化されてしまうことへの危機感をもったことにあります。

大学初年次向けの授業を担当すると、きまって大学の授業は面白くないという感想を言う学生がいます。予備校の授業はとても面白かったけれど、大学の授業はどれも退屈だ。やっぱり大学の先生たちは、終身雇用で給料が安定しているから授業に手を抜くのだろう。それに比べ予備校の先生たちは、将来が不安定で、人気が出ないと高い給料をもらえないから、授業に気合が入っている、と。だからいっそ大学も、予備校のようなシステムに変えてしまえばよいのではないか、と思う学生もいるようです。確かにそうなのかもしれませんが、しかしそれ、本当に望ましいことなのでしょうか。

 予備校の授業、とくに大学受験対策のための授業が面白い理由は、なによりもまず、大学受験というものが社会のなかで「最重要関門」として存在しているからでしょう。「少しでもよい大学に入学すれば、自分の人生は格段にハッピーになるはずだ」という心理が、学生たちのなかにある。実際には受験で人生の大部分が決まるはずはないと思っていても、なぜか受験にはがんばってしまうという雰囲気があるわけです。それに、カリスマ的なパワーをもつ先生たちに帰依するような気持ちで授業を受講している人も出てきます。こうして、「この大学受験という最重要関門を越えさえすればよい」という学生たちの心理が、予備校の授業というものをスリリングにしている。ある種の魔法が働いているわけです。

しかし大学に入ってしまえば、学生たちの心理状態はガラリと変わってしまいます。受験の魔法は消えてしまい、大学の授業など自分の人生にとってさほど価値はないということが分かってくるのです。そういう状況のなかで大学に予備校のようなシステムを導入しても、うまくいかないでしょう。今の教育制度では、大学に入った後で勉強しても、自分の人生が格段によくなることなどありえないわけで、要するに受験教育がもつある種の魔法というものが、そもそも存在していないのです。

ではどのような改革をすれば、大学教育というものが面白くなるのでしょうか

結論から言えば、大学受験というものが、社会の中で「最重要関門」とならなければよいのです。つまり、大学入試を簡単にして、一定の基礎学力がある人なら、どの大学でも入学できるようにしてしまう。そして学生たちには、大学に入ってから勉強してもらうような制度を考えるのです。いわば受験教育がもつ魔法を、大学にも継続的に、しかし形を変えて、導入しようというわけです。

私の改革案の主要な骨子は二つあります。一つは、大学における「選抜システムの段階化」として、入試資格と三年次進級資格を分離するというものです。具体的には、入試試験を今の共通テストのみとし、今の二次試験を三年次進級試験に変更するということです。もう一つは、「多機能教育空間の創造」を目標に、大学における初年次教育を外注化するというものです。例えば予備校の授業を、大学初年次教育の一環に組み込んでしまうのです。この二つの改革を通じて私は、「大学教育を受ける機会の均等」と、「大学を選択する自由」という二つの理念を拡充しようと考えています。ではまず、この二つの理念に照らして、今の教育システムがもつ問題点から検討してみましょう。

現在の入試システムでは、学生たちは、大学受験の段階で自分の進路の大半を決めなければなりません。でもこれはほとんど無理なことです。短期間のうちに、しかも、みんなで揃って将来の重要な進路を決めるということは、「選択の自由」という理念に照らした場合、ほとんど「強制」に近い。結果として学生たちは、「自分はたまたまこの大学のこの学部に入学できたから」ということで、その後の進路を方向づけられてしまうわけです。

問題は、学生たちが大学選択や将来設計に関して、「試行錯誤する自由」をあまりもっていないという点です。学生たちは大学に入る前に、そもそも何か将来の進路について試行錯誤したのでしょうか。あるいはまた、大学に入ってから何か大きな試行錯誤をしているのでしょうか。私が見るかぎり、彼らはほとんど、そういった「よい機会」を与えられていません。だから結局、学生たちは自分の親と同じような職業進路を歩むことがふさわしいと思うようになり、階層間の移動が減少してしまいます。現代社会においては、学生たちは人生の試行錯誤をする機会を奪われているので、階層の固定化という保守化がいっそう進んでしまうのです。

そこで私の改革案では、とにかく大学に入学してから、とりわけ最初の2年間に、人生を大いに試行錯誤するようなシステムを構築してみようというわけです

 

【段階的選抜導入で入学後の勉強促す】

入試資格に関する私のアイディアは、まず、誰でも共通テストで一定の点数をとれば、それだけでどの大学でも入学できるようにする、というものです。例えば800点満点中、550点を取れば、東大であろうが京大であろうが、誰でも好きな大学に入れるようにします。ただし、大学3年次に進級する際には、それなりに厳しい進級試験を課して、人数を絞る。また卒業する際にも、一定の試験を課す。こうして学生たちの学力を段階的に向上させていくことができれば、大学教育は成功するのではないか、というのが私の目算です。

もっともその場合、入学試験と進級資格試験については、高校1年生の段階で両方とも受験可能にし、その試験に合格してから3年以内であれば、いつでも入学・進級できるようにすることが望ましいと思われます。こうして例えば、ある学生は、すでに高校1年生のときに、入学資格およびある大学の3年次に進級する資格を得ることができます。またある人は、高校を卒業してからとりあえずどこかの大学に入学し、その後で別の大学の3年次進級資格試験に挑戦することができるでしょう。このように、大学入試の壁を低くし、進級資格試験を分離して、さらに何度も受験できるようにすると、学生たちは高等教育において、「試行錯誤に基づく大学選択の自由」を実質的にもつことができます。多くの場合、学生たちは大学に入ってからの2年間(あるいは留年を含めて4年間)の初年次教育のあいだに、自分の進路を真剣に試行錯誤するようになるでしょう。もしかりに、大学3年次への進級を諦める学生がいるとすれば、その人には1・2年次における単位取得をもって、「短大卒」の資格を授与すればよいのです。この場合、短大卒の資格は、大学における試行錯誤の勲章として実質的な意味をもちえます。

この改革案では、いわゆる一流大学に学生が集まりすぎてしまうのではないかという疑問が生じるかもしれません。

しかし、誰でも共通テストで550点を取れば一流大学に入学できるということになれば、「一流大学入学」のもつブランド価値はめっきり下がるはずです。逆にいえば、一流大学の3年次進級テストに合格し、しかも卒業しないかぎり、誰も従来のようなブランド価値をもつことはできなくなります。また優秀な学生は、最初から一流大学の三年次進級試験に合格するでしょうから、わざわざその初年次教育において、3年次試験対策の講義を受けなくてよいわけです。

しかしそれでも一流大学の初年次教育に人が集まるならば、そうした大学は一つの経営方針として、他の大学のキャンパスを買い取り、教官数を増やして、大学の規模を拡大することも可能です。それこそ代ゼミや河合塾のように、キャンパスの全国展開を企て、例えば東大札幌校だとか、東大名古屋校などを開設すればよいわけです。

また諸大学は、他の大学に対抗するために、例えば入試で650点以上を取った学生に、奨学金を貸与するとか、授業料を免除するなどの特典を段階的に設けることによって、優秀な学生たちを確保することができるようになります。一般論として言えば、学生たちは、奨学金を得て二流大学に通うか、あるいは授業料の高い一流大学に通い悪い成績で卒業するか、という選択を迫られるでしょう。その場合、就職に際して前者のほうが有利であれば、一流大学に進学する需要は減ると思います。つまり、よい成績で大学を卒業しないかぎり就職に不利だということになれば、一流大学に学生が集まりすぎることはないでしょう。

 ところで、誰もが一流大学に入学できる制度というものは、ある意味で一つの社会的理想かもしれません。誰もが一定の基礎学力を身につけるだけで、高度な教育の機会を均等に得るわけですから。またそこでいろいろな先生や学生に出会い、自分の人生の幅を広げることもできます。そうした「機会」を拡充するために、全国の(いや国際的な規模で)諸大学が連携するような組織を発展させることも必要かもしれません。機会を拡充するためには、夏学期や夜間講座の創設も検討すべきでしょう。

 

【旅行やボランティア体験にも単位を】

私の改革案の二つ目は、初年次教育を大胆に外注化し、大学内に「多機能教育空間」を作るというものです。初年次教育に必要なことは、学生たちがそこで自分の将来を考えるための、いわば「ワンダーランド」です。大学は、学生たちが人生を考えるうえで必要となる体験の機会を、豊富にそろえることが必要です。

 まず、初年次教育では、3年次進級試験対策に適した授業が必要です。これについては、高校教師や予備校の教師に委託することがふさわしいと思われます。3年次進級を、いわば受験のプロに任せてしまうのです。3年次進級資格試験のための講義は、実は、すでにこの試験に合格した学生にもニーズがあります。例えば歴史科目で「日本史」を選択した学生が、進級試験に合格してから後に、「世界史」の授業を受けたいと思うかもしれません。

 第二に、教養科目については、企業や官庁その他の団体から、講義を自発的に開講してもらう。例えば官庁は各種の白書に基づく講義を開講し、ある企業は産業構造論について講義するといった具合です。あるいは各種専門学校の主催で、会計士試験や国家公務員試験の対策講義を大学のキャンパスで行うことも奨励する。語学の講義については、いくつかの民間の英会話学校に外注し、そこに競争原理を働かせることが望ましいでしょう。私の経験から言えば、大学における従来の語学の授業は、うまく機能していません。語学はすべて民間の語学学校の先生に任せてしまった方がよいと思います。

 その他、講義について、私は次のようなアイディアをもっています。一つは、海外20カ国を半年間かけて旅行すれば、その旅行記を提出することによって、半期分の単位(例えば20単位)を取得できるようにするというものです。その際、半年分の授業料は免除します。もう一つは、大学4年次までの学生を対象として、「職業体験50社コース」や「市民活動・ボランティア50団体コース」を設置するというものです。これによって学生たちは、一つのアルバイト経験からのみ社会を知るというのではなく、さまざまな角度から社会というものを経験することができるようになります。さらにまた別のアイディアとして、その地域で活躍する芸術家や作家やジャーナリストなどが実践的な講義をするとか、各種専門学校の講義(美容・看護・針灸・アニメ・コンピューターなど)をその入門コースだけでも開講するといったアイディアも面白いのではないでしょうか。

 このようにして、大学初年次教育を「学生たちが社会の中で試行錯誤する場」として構想するならば、大学は、人生を模索したいという学生たちのニーズに応えることができるようになるわけです。大学初年次教育では、試行錯誤に基づく人格の陶冶をめざすことこそ理想である、というのが私の主張です。

 

【「みんなで努力しない平等」ではダメだ】

以上が私の改革案の主要な骨子です。要約すると、大学を活性化するためには、(1)大胆に入試制度を変革し、入試を簡単にしてしまう、(2)そして初年次教育を外注化し、学生たちが人生を大いに迷うことができる空間を生みだす、ということです。この他にも私は、「大学3・4年次において新教養スタンダードを導入する」だとか、「ゼミや大学院の改革」など、大学改革についていくつか提言したいことがありますが、ここでは控えます。いずれにせよ私の改革は、学生たちが試行錯誤する自由を活性化するという「成長論的自由」を理念として掲げています。ここで言う「成長論的自由主義」とは、人々の知的成長とそれに伴う社会の成長を最大限に企図するような制度理念です。拙著『社会科学の人間学――自由主義のプロジェクト』(勁草書房、1999年)中でも展開していますが、この理念は、法以外のすべてを市場にゆだねる原理的自由主義(リバータリアニズム)とは異なり、知識と社会の成長のために、「市場ではやっていけない組織」にも、市場がもつ発見機能や成長のメカニズムを組み込んでいこうとするものです。

日本はこれまで、中間大衆の形成とそれに基づく経済成長という社会的目標が優先され、そのために、軍隊における行進訓練のように、平等な作業環境のなかで個々人から最大限の努力を引き出すようなインセンティヴ・メカニズムが考案されてきました。「平等」の理念は、「みんながんばっているから自分もがんばらなければならない」という「努力の平等な行使」を意味し、能力があまりなくても努力することがもたらす社会的価値を称揚してきたのです。

これに対して、能力によって人を選別するシステムは、がんばる人には勉強するための強いインセンティヴを与えますが、そうでない人にはむしろ勉強へのインセンティヴを失わせてしまう。つまり能力主義社会になると、「平等な作業環境の中で個々人から最大限の努力を引き出す」ことができなくなると考えられたために、中間大衆層の能力を最大限に引き出すシステムとして、平等主義のシステムがながらく採用されてきたわけです。

しかしこんにち、平等主義の理想は、社会の複雑性の増加に伴い、「悪平等」の現実に転化しつつあります。つまり、「みんなで努力する平等」は、「みんなで努力しない平等」へと移行しうるわけです。実際、「みんなが勉強しないから自分も勉強しない」という心理はますます増大しつつあります。

 20世紀における日本の教育はある意味で成功したと言えます。すなわち、だれでも高等教育を受けるだけの機会と能力を身につけることが可能な制度、言い換えれば、平等な関係の中で個々人の最大限の努力を引き出すようなシステムを生み出すことには成功したわけです。しかし21世紀においてそのようなシステムは、平等よりも自由を理念に置くような制度に改革されなければならないでしょう。平等の理念は、それ自体のみでは、「悪平等」への転落を避けることはできません。

自由な社会とは、多様な機会の中で「試行錯誤」を試み、その質と量によって自らの自尊心を鍛えることができる社会です。私の改革案は、学生たちがさまざまな機会を最大限に利用するなかで、試行錯誤に基づく人格の成長を遂げることを目標としています。今の大学では、そのような理想はほとんど奨励されていません。試行錯誤する機会などどこにでもあるかもしれませんが、ほとんどの学生たちがそれに気づかないで卒業を迎えてしまうのでは、制度が機能していないわけです。自由をうまく利用するためには、制度によるバックアップが必要である。このことを私は最後に強調したいと思います。